パーリ語の経典に、どんなに精進しても悟りに近づけず焦燥感・絶望感を募らせていたソーナという比丘が登場します。彼は、過度の修行により足から血を流すほどでありました。それを知ったお釈迦様は、ソーナが琴の名手であったことを知り、以下の説法を行いました。
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「ソーナよ、どう思うか?。もしあなたの琴の弦が張り過ぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「いいえ、そうではありません、大徳(釈迦)よ」
「ソーナよ、どう思うか?。もしあなたの琴の弦が緩すぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「いいえ、そうではありません、大徳よ」
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張りすぎず、緩すぎもなく、丁度よい度合いを持っていたら、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「そのとおりです、大徳よ」
「ちょうど同じように、ソーナよ、行き過ぎた努力は高ぶりを招き、少なすぎる努力は懈怠を招く。それゆえソーナよ、あなたはちょうどよい努力を保ち、感官にちょうど良いところを知り、そこに目標を得なさい」
弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない、程よく締められてこそいい音が出る、比丘の精進もそうあるべきだと釈迦に諭され、ソーナはその通りに精進し、後に悟りに至った。
弦の張りを調節するということ 極端ではなく中間。その中間にも、張り過ぎ、ユル過ぎがあるように、より良い状態とはどの状態の時なのか絶えず調整を続けて、工夫する。
湿度や天候の変化、素材の性質、特性も含め最も適した状態を探し極める。この極めるということは、両極端の極み とは違う。違うという事を理解するには、実際に変化させないとわからない。
「ほどほど」とはなにか?
現在 極端なのにこれが普通だと感じている時、逆の極端まで変化させることで、中間が見えてきます。
絶えず調整を繰り返す。それでも見えてこない時、観音様という第三者の目線で見てみることが極端から逃れる最善の方法。御自分自身が観音様に直接話しかけた時、住職は強い味方となって共に最善点を探します。