当寺院について

住職について

住職と副住職
(写真左は次期住職)

下がった眉毛が特長の住職。氏名加藤英宗(祖父と同名)

略歴 長谷山福昌寺 次男として 神奈川県立厚木病院にて昭和43年に出生(猿年)英数学園(当時幼稚園認可未満だった)から、南毛利小学校5年まで在校、近隣に毛利台小学校が完成し転校、第一期卒業生となる。玉川中学校卒業後、修行の世界へ。師匠と同じく、愛知妙厳寺専門僧堂と同時に私立豊川高校夜間部に入学。勉学よりも修行中心だった為、駒澤短期大学へ進学となる(涙)。その後永平寺にて再度修行を重ねる。戻寺後、長谷寺復興の為に、趣味として資格取得を開始。 普通自動車免許に始まり、大型二輪、牽引 大型特殊二種自動車免許。アマチュア無線4級 調理師免許 2級船舶免許 アセチレンガス溶接免許、潜水士 2級建築士 2級土木施工管理技士  2級電気工事士 ブロック塀診断士 中級カイロプラクティック士 最近はワードプレスという物を知り、楽しみながら習得中です。(人生を楽しみましょう)


寺院について

寺院正面写真

寺院名 蓬莱山 長谷寺(ほうらいさん ちょうこくじ)
宗 派 曹洞宗(そうとうしゅう)
御本尊 聖十一面観世音菩薩(せいじゅういちめんかんぜおんぼさつ)
住 所 神奈川県厚木市長谷1288番地(←地名は「はせ」と読む)
略縁起
長谷観音は日本全国の三長谷観音と称し、康平・天喜(1053年前)の頃、某阿闍梨(ぼうあじゃり)が、大和の長谷寺より御姿を移され、その名を蓬莱山長谷寺(ほうらいさんはせてら)として建立す。

本尊は大和(奈良)の長谷観音の十分の一の御丈二尺六寸の十一面観世御菩薩を遷座(せんざ)す。
後遂に廃衰(はいすい)して、宝治二年(1248年前)三月北条時頼が鎌倉の戌亥(いぬい)に当たり、この戌亥除けに長谷観音音菩薩の堂宇を修復し、真言宗福寿院長谷寺の別当として地名を長谷と名付ける。
文明年間に至り、上杉・甲斐の両兵が当国に侵入して戦端を開き、右寺は堂塔伽藍宝物(どうとうがらんほうもつ)書類等共に兵火の為灰滅す。この時某阿闍梨が開創(かいそう)時に開掘(かいくつ)した泉(いずみ)があり、兵火の時幸にも観音菩薩は泉地に在って御尊体には一点の傷もなかった。人々はその霊験の顕著なることに驚き、浄財を喜捨仕合って小庵(しょうあん)を結び、安置す。それ以来その泉地(せんち)の水の減水を見ず、この水で目の悪い人々は家に持ち帰って目の治療に使用したという。
 永正八年(492年前)曹洞宗の陽月周睦禅師が当地に留銚し、観音の霊場を見て、一寺を創設し、その名を長谷山福昌寺と名付け、それ以来福昌寺の別当(別院)として管理してきたが、福昌寺十三世大船和尚が十方の道俗(仏の道に入っている人や俗世間の人)に浄財を請い、宝暦三年九月(250年前)に再建をみる。しかし、時が流れ、明治二十七年四月、再び大破した堂宇を福昌時二十九世梁円和尚の元に、村民は勿論十方の有志者に浄財を請い修繕を加え、同年四月三日より五日まで長谷観音の御開帳(十二年に一度の午年)をし、御祈祷・御施餓鬼会(おせがきえ)・先祖供養・長谷座による人形芝居等をし、堂下においては、競馬を催し、村民や参詣者の楽しみの一つであった。
 だが、昭和二十七年四月に堂舎が消失する。その際、近隣の農民信者の協力により、ご尊体と閻魔大王は無事で、福昌寺に仮安置してあったが、平成二年四月三日観音仮堂に安置し、その年の五月にお開帳を実施す。その後、平成五年九月に長谷観音の本堂及び庫裏などを再建し、祭典などは元の霊場で催すことになる。
 なお、運慶作の閻魔大王の尊体は○○寺に開堂し、そこに安座している。

設備

本堂

赤い柱が特徴的な本堂です。

神様

駐車場から階段を下ってすぐ左にあるのが神様です。

お墓(樹木墓など)

本堂正面の階段を下がったところがお墓です。一般的なお墓と樹木墓があります。

駐車場

本堂の裏に駐車場があります

スロープ

駐車場から本堂入り口までつながったスロープです。

バリアフリー
長谷寺ではスロープや手すりの設置などに取り組んでいます。

ベンチ

ベンチから大山の景色が見られます。

芝生

お墓の隣には芝生があります。

しばさん
本年度もよろしく土壌改良に加えて 追肥しました。備忘録として。昔先輩に質問を示してみました。芝を育てるにはどうしたらいいんですかと。するとこう教えていただきました「何も触らない」 これが極意だそうでございます。...

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