蓬莱山 長谷寺

長谷寺の歴史

3度焼け、4回目の復興

厚木市長谷にある蓬莱山 長谷寺(ちょうこくじ)は、曹洞宗のお寺です。はじまりはおよそ970年前、ひとりの僧が奈良の長谷寺から観音様をこの地にお迎えしたことでした。奈良・鎌倉と並ぶ「三長谷観音」のひとつと、寺には伝わっています。

戦や火事でお堂を失うたび、人々の手で建て直されてきました。いま建っている本堂は、四度目の再建です。

1053

長谷寺開山

いまからおよそ970年前(1053年頃)ひとりの僧が
大和(奈良県)の長谷寺から観音様のお姿を移し
「蓬莱山 長谷寺」を建立しました。

ご本尊は、大和の長谷観音の10分の1の大きさで、高さ約79センチ(2尺6寸)の十一面観世音菩薩です。

当寺のご本尊を遷した大和国の長谷寺 本堂

1053

1248

鎌倉時代の武士を描いた絵巻。宝治2年、北条時頼が戌亥除けとして長谷観音の堂宇を修復した

北条時頼による修復

宝治2年(1248年)、鎌倉幕府の北条時頼が、この地を鎌倉の「戌亥(北西)」にあたる方角と考え、戌亥除け(厄除け)のために長谷観音の堂宇を修復しました。 真言宗の「福寿院 長谷寺」の別当(管理を任された寺)とし、この地を「長谷(はせ)」と名付けました。

1469-1487

1469-1487

戦火と奇跡の泉

文明年間(1469~1487年)上杉氏と甲斐の軍勢がこの地に侵攻し、戦が始まりました。 戦火によって寺の建物や宝物、記録などが焼失したが、阿闍梨が寺を開いた際に掘った泉があり、観音菩薩はその泉のそばにあったため、一切の傷を負いませんでした。この奇跡に人々は驚き、浄財を出し合い、小さな庵(いおり)を建てて観音様をお祀りしました。以来、泉の水が減ることはなく、目の病に悩む人々がこの水を家に持ち帰り、目の治療に使用しました。

開山の阿闍梨が掘ったと伝わる長谷寺の泉。文明年間の兵火から観音菩薩を守った

1511

曹洞宗 長谷山 福昌寺の本堂と門前の石柱

長谷寺と福昌寺

永正8年(1511年)、曹洞宗の陽月周睦禅師がこの地を訪れ、新たに寺を創建。
「長谷山 福昌寺(ふくしょうじ)」と名付けました。

1753

宝暦の復興

宝暦3年(1753年)、福昌寺13代目住職・大船和尚が支援を募り、荒廃していた長谷寺を再建しました。
人々の協力により本堂などが復興され、再び信仰を集める寺となりました。

長谷寺の復興を支えた方々の写真

1753

1894

明治27年の長谷観音御開帳で堂下に催された競馬(くらべうま)のイメージ

復興と賑わいの春

明治27年(1894年)経年劣化で大破した本堂を福昌寺29代目住職・梁円和尚が修繕を行いました。 同年4月3日~5日、「長谷観音の御開帳(12年に一度の午年)」を実施しました。
御祈祷・先祖供養・施餓鬼法要・人形芝居(長谷座)・競馬(やぶさめ)などを催し、村人や参拝者の楽しみの場となる

1952

火災と観音様の救出

昭和27年(1952年)、火災により堂舎が焼失
近隣の農民信者の協力で、ご本尊の観音様と閻魔大王を無事に救出し、一時的に福昌寺へ安置しています。

昭和27年4月の火災で焼失する長谷寺のお堂のイメージ

1952

1990-1993

平成5年9月に再建された蓬莱山長谷寺の本堂と参道の石段

平成の復興

平成2年(1990年)、観音様を仮堂に安置。
同年5月に再び御開帳を実施 平成5年(1993年)
本堂と庫裏(くり)などを再建 祭典なども本来の霊場で執り行われるようになる

現在に至る

監修:加藤英宗 住職

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