両親は2人とも高校の先生だった
しかも、私立高校の先生が2人
今になって思えば、2人ともディベートもよくできた。子供からしたらば、喧嘩にしか聞こえなかった。
父親は学生時代に弁論部に所属していた模様だ
母親はそれ以上に打ち負かすほどに言葉がたけていたひょっとしてアルバイトで行っていた。電話交換手と言うのはクレーム処理班だったのかなあなんて思ったりもする。
母親の口癖に、「いちを言って、なぜじゅうがわからない?」というのがあった。
わかるわけがない。母親のレベルと自分のレベルの差があまりにも激しいからだ。
例えて言うと
病院の手術室では看護師さんは、手術の流れを把握し、ドクターが次に何をしてしようとしているのか、どんな器具が必要なのかを先読みをして、どんどんと機材を渡していくそうである。
きっと、母親はそんなことを言いたかったのであろう
今、現状は、こう。そして目標の到達地点は、こう。ならば、それまでの道筋を、どういう風に一つ一つをこなしていくべきなのか。それを踏まえて全てをやりなさい。
それを一言「あれやって」
わかるはずがない。
全体像がつかめていないからだ。全体像がわかるようになるには、それ相応の経験が必要で、その経験を重ねるには時間がかかる時間をかけてあちらこちらで失敗をし、失敗の上で初めてわかること。これはこうすればいいんだあぁしなければいけないんだ。こうしちゃいけないんだあぁするといいんだ。徐々にわかってくる。そして叱られていた時期の母親と同じ年頃を迎えあぁ母親はこういうことを言いたかったんだ。ああいうことをしたかったんだということがわかるようになる。
人生は意外と短い。短いからこそ、自分の番自分の時間を大切にしてもらいたい。そして次の代も同じように悩み同じように失敗をし同じように経験を重ねそして同じように成長していく。ただ少しでも違うとするならば自分を踏み台にしてほしい。それが一般的に言う書籍と言われているものなのかもしれない。
書籍には、その人が重ねた経験を精査し、細かく整え、多くの方々からの助言があって、整えられたものが書籍である
インターネット上の文章とは、格段レベルが違う。誤字脱字、言い回し、一つ一つがチェックを受けて書籍となる。
とてもとても手間ひまがかかり、そして1冊を出版すると必ず国会図書館に提出しなければならない。昨日国会図書館の使用の申請を初めてやってみた。
国会図書館ではかなり以前より書籍1枚1枚1冊1冊、1ページ1ページを写真と言う形で撮影をし、PDFまたはJPEGでしょうかデジタル化を進めている模様であります。
そして、良いところは、デジタル化した原本も、またそのまま保存保管してくださるところです
今この文章も携帯電話の言語認証機能を使い自動でひらがなカタカナ漢字句読点をつけてもらっています。凄い時代になりましたね。
文章は、各時代から話す時代に変わったのかもしれません
ひらがなでだいじょぶと書くのと、漢字で大丈夫と書くのではずいぶん見え方が違います。
とにかく、日本語は面白い。
表題にあります。全然と言う単語
調べる前までは否定に使う言葉と思っていましたが、本来の使い方はすべてと言う意味もあって、否定肯定どちらに使う言葉でもあります。そんなことも知らんと頭に違和感をずっと残していたこと、調べてみないとわからないこと、勝手に思い込んでいたことがいっぱいあることを実感しています。
ご自分の中に違和感があるものは色々とググってみてください。発見がいっぱいありますよ。
このググる という表現。文献検索は
Google Scholar を使うと言うことも、つい最近知った程度のものであります
本来、人は何も知らない。知らないと言うことを仏教では無知と言う。無知だからこそ学ぶ。知らない事は当たり前。今この状態でも全然大丈夫。そこから学んでいけばいいんだから。
