迷わず咲けばよい。
道元禅師はこのように記された
現実世界において、今現在おこっている事柄すべてを仏法で言いあらわすことができる。それは、迷いと悟りであり、行いを修めることであり、生であり、死であり、諸仏があり、いのちあるものすべてである。
すべての現象や存在が無ければ、迷うことなく、さとることなく、諸仏もなく、いのちあるものすべてが無いから、生もなく、消えることもない。
自分を磨く以前に、豊かさや貧しさから飛び出すことができるからこそ、変化を受け止めることができて、迷うからこそ悩みて善き道を知ることがでる。だから「覚者」となれる。
しかも、それはわかっていても、華を大切に大切に保護しようと扱っても散ってしまい、草は嫌がられても自然にはびこる
自分を基準に世界をみると迷い悩む。世界基準から自分を見れば間違いに気づく。
迷いから真剣に学び続けた者が悟る人であり、悟りに執着し迷うのが人間である。
さらに悟りを極めたと豪語する者は、迷いのツボの底に居る。
悟る者のさとりとは、自分が悟る人だと気づかない。しかし悟る者であり、釈迦の悟りと共にあゆむ。
丹精こめて生産者さんはチューリップの球根を、育てました。ただ残念なことに、売ることが出来る時期がすぎ、生産者のもとに戻ることになりました。その一部が長谷寺に到着したのは、一般的に植える時期を大幅に過ぎた頃でした。プランターと培養土を購入し、時期がずれていてもガンバレと、応援。
たとえ時期がすぎようと、それを補助する手立てを整えれば見事に咲くことができることを教えてくださいました。やがて花は落ち、次世代の為に栄養を蓄える。
物事を素直にうけとめ、素直に行う。あたりまえを、あたりまえに準備することを 作務と言い
作務を行う服装を作務衣と言う。準備が整い法務を勤める時、着る服装を法衣(ほうい)と言う。
チューリップのように私達も 迷わず咲けば それで充分(満分)