命を洗濯する。という考え方。
軽トラが大好きな私。荷物がいっぱい積めて、あっという間に過積載になったり、空荷だと妙に軽快で、頑丈なのに、つい点検を忘れて、点検しないで永年使っているので、不具合を抱えていたりする。
普段は乗り心地の良い乗用車を活用していて、乗用車は他人の目があるから掃除したりするのに、軽トラは全然掃除もせずに使いっぱなし。エンジンオイルも、いつ頃変えたかわからなくて、汚れと言うよりも、実はエンジン内の結露が溜まって水分が水となり、本来オイルの必要な時に水が配管内を回ってしまうことで不具合が起きていたことも知ることなく、故障の原因になっていたりする。
汚れていなくてもオイルは定期交換しないとダメな理由が実はあるのに、綺麗に見えるから交換さえしてもらえない。
これを自分の心に置き換える。
他人の目線が気になるから、世間体には手間を惜しまず率先する。
自分の心がエンジンオイルのように一見汚れていないように見えるけども、実際には重大な問題を抱えていることを気づくこともない。
定期的なメンテナンスを怠ると突然に壊れたように感じてしまう。壊れるには必ず理由がある。
エンジンオイルを交換するように、心の汚れを洗濯する。洗濯する方法を整えて今に伝えている場所として定着したのがお寺。
お寺というよりも、おしゃかさまが実際にやってみて、自分で納得したから、みんなに話したら、なるほどー。と広まったのが今でいう仏教だとすると、妙に納得する。宗教と言うよりも、哲学に近いといつも感じていて、徐々に、わかりやすく、納得してもらえるように整えていきたい。
なるほどー。と色々な事柄が納得できるようになっていくことが、一般的な さとり と呼ばれている事なのではないか?
なぜ自分だけが!と、悲観的になったのか?色々な要因が重なって今に至り、今の自分になる様に、最適化(チューニング)した結果で。
もしもその状態を変えたいのなら、今の現状を素直に受け止める。素直に認める。素直に客観視してみる。
その時間が大切で、お釈迦さまが実際やってみた、王子様として何不自由のない生活でも、不安は膨らんで、生死を懸けて行った苦行でさえも、不安は拭えず、両方やってみて、考えられるあらゆる事柄をふまえて、ふまえながらも離れてみてみる。
じっくり眺める、時間をかけて眺める。
何度も何度も。
プログラミングなら、なぜ動かないのかじっくり1行、いや1文字ずつ確認するように時間をかける。修正は1度で終わるはずもなく、動くまで何度でも、納得するまで何日も
坐禅は、どのくらい時間をかければ良いですか?と聞かれたらば、悩みや課題を抱えている証拠。
悩める理由、理由に納得するまで何度でも。
結果、自分で操作できる範囲を超えているのならば、素直に納得する。(過去に戻る 重力に逆らう事です。まあ意外に近い未来になるほどと解析が進んで、タイムワープができたり、反重力装置が完成したりして)
それをふまえて、どうするか?やってみる。
悩みと言う納得できていない事を、なるほど!と納得するには、心を整理、清掃して解きほどく
お寺は心の 洗濯処